2021年11月29日、当時パリ・サンジェルマン(PSG)所属に所属していたアルゼンチン代表FWリオネル・メッシは自身7度目となるバロンドールを2019年以来、2年連続で受賞(2020年は新型コロナウイルスの影響で中止)し、単独最多受賞記録を更新した。また、2022年のカタールW杯では悲願の優勝を果たした。サッカー界の「神」とまで称され、名実ともに歴代No.1選手とも呼び声の高いメッシだが、そんなメッシのプレースタイルや、スーパープレー、これまでのキャリア等を紹介していく。
生年月日 | 1987年6月24日 |
国籍 | アルゼンチン |
所属クラブ | インテル・マイアミCF |
ポジション | FW |
身長 | 170cm |
利き足 | 左足 |
経歴 | バルセロナ→パリ・サンジェルマン→インテル・マイアミ |
世界最高の左足の持ち主。高速で相手のバランスの逆を突き続けるドリブル。時には正確、時には力強いシュート。精密で相手の急所を突くパス。相手にプレッシングされても崩されないボディバランス。相手GKに指一本触れさせないフリーキック。どれをとっても一級品だ。それはメッシのプレーを一度でも見たことがあれば一目瞭然である。歴代No.1フットボーラーであることは多くの人が否定することは難しいと言える。
メインポジションは右WGだが、これまでメッシを指導してきた監督は、彼をより輝かせるためにはどうすれば良いかを考え、メッシを中心としたフォーメーションを組み立てることが多い。
バルセロナ時代のジョゼップ・グアルディオラ監督(現マンチェスター・シティFC監督)が考案した戦術の中でも有名なのが、メッシを前線の真ん中に配置した0トップシステムだ。
前線の中央に配置されたメッシは、あまり前線に留まることはせず、中盤まで降りて元スペイン代表MFシャビ・エルナンデス(現バルセロナ監督)や同MFアンドレス・イニエスタ(現ヴィッセル神戸所属)、スペイン代表MFセルジオ・ブスケツと共に、パス回しに参加する。中盤に降りていくメッシに相手のCBがマークのため釣り出されれば、左右WGに配置された元スペイン代表FWダビド・ビジャや同FWペドロ・ロドリゲス(現SSラツィオ所属)が相手CBが空けた前線のスペースへダイアゴナルに走り込みゴールを狙う。降りていくメッシに相手CBがついて行かなかった場合は、相手の守備的MFの脇でメッシが前を向いてボールを受けることが容易となり、そこからドリブルを仕掛けることが出来る。メッシの動きで周りが連動して動き、そしてメッシがフリーな状態で前を向いて攻撃を仕掛けることこそがこのシステムの真の目的である。
メッシの弱点を挙げるとすると、運動量の少なさであろう。試合中に歩いているメッシをよく目にする。これは、攻撃のためにスタミナをセーブしているとも言われているが、実際にメッシが守備時にプレッシングを続けた場合、攻撃時のクオリティは下がるだろう。だが、メッシは歩いている状況において、スタミナをセーブしているだけではなく、周りをよく観察し、相手の急所を探っているのだろう。
2007年4月18日、スペイン国王杯(コパ・デル・レイ)準決勝ヘタフェCF戦。前半28分の伝説となった5人抜きゴール。右サイドハーフウェーラインからドリブルを開始したメッシはゴールまでの最短距離で相手を抜きまくり、GKもかわして倒れ込みながら右足でシュート。ドリブル開始からゴールまで12秒の出来事だった。
2011年4月27日、UEFAチャンピオンズリーグ準決勝、レアル・マドリードCFとの第1戦。中盤で一度ボールをブスケツに預け、そのままボールを引き取ったメッシはそのままゴールへ向かって高速ドリブルを開始。あっという間にゴールを奪い、レアルの選手は唖然とした表情を浮かべるしか無かった。
2015年5月6日、UEFAチャンピオンズリーグ準決勝、FCバイエルン・ミュンヘンとの第1戦。ドイツ代表DFジェローム・ボアテングがメッシのアンクルブレイク被害者となったことでも有名なゴール。
2019年5月1日、UEFAチャンピオンズリーグ準決勝、リバプールFCとの第1戦。メッシのこれまでのフリーキックの中でもNo.1との評価も高い。スピード、コースともに完璧で、ブラジル代表GKアリソン・ベッカーでも指一本触れることが出来なかった。
出身はアルゼンチンのロサリオ州。1995年に、地元のクラブであるニューウェルズ・オールドボーイズに加入。10歳の頃成長ホルモンの分泌異常の症状(成長ホルモン分泌不全性低身長症)が発覚し、成長ホルモン投与などの治療無しでは身体が発達しないと診断された。1年目は父親のホルヘが働いていた会社の医療保険によって治療費が賄われていたが、2年目の終わりに近づくとアルゼンチン経済の悪化の影響もあり、支払いが打ち切られた。継続的な成長ホルモン投与が難しくなったが、13歳の時にバルセロナの加入テストに合格したことが転機となる。家族揃ってのバルセロナへの移住を条件に治療費を全額負担することを約束され、2001年2月、メッシは家族と共にバルセロナへ渡り、2001年3月1日、正式契約を結んだ。その後の活躍は言わずもがな。メッシあってのバルセロナと言っても過言ではないプレーを見せ続けた。ラ・リーガ10回、コパ・デル・レイ7回、スーペルコパ8回、UEFAチャンピオンズリーグ4回、UEFAスーパーカップ3回、FIFAクラブワールドカップ3回という多くのタイトルが物語っている。
そして、2021年、サッカー界に激震が走った。生涯をバルセロナで過ごすと思われたメッシがバルセロナを退団することとなった。バルセロナの財政状況の悪化により、クラブに留まることが出来なくなったメッシは、8月8日に涙ながらに退団会見を行い、8月10日にPSGと契約。活躍の場をフランスのリーグ・アンに移した。
アルゼンチンのA代表には2005年8月17日ハンガリー戦でデビュー。63分に途中出場したが、わずか40秒後に相手選手に肘打ちを入れレッドカード。涙を流しながら退場というほろ苦いデビューであった。
これまでに4回のFIFAワールドカップに出場し、ブラジルにて開催された2014年大会では、決勝まで駒を進めるも、ドイツ代表に延長戦の末0-1で敗れ準優勝となった。
2008年夏に開催された北京オリンピックでは決勝まで勝ち進み、決勝のナイジェリア戦では唯一の得点をアシストし、1-0でアルゼンチンが勝利して金メダルを獲得した。
ブラジルで開催されたコパ・アメリカ2021では、大会MVPを受賞する活躍を見せ、開催国のブラジルを決勝で1-0で破り、自身初のA代表タイトルを獲得した。
2022年のカタールW杯では、決勝でフランス相手にPK戦で勝利し、悲願のW杯制覇を果たした。
2023-24シーズンへ向け、メッシはPSGと契約延長はせず、2023年7月15日にインテル・マイアミへフリー移籍し、活躍の場をヨーロッパからアメリカに移した。
メッシの運命を変えたもの、それは紙ナプキンである。2000年10月3日、バルセロナの入団テストとなったユース世代の試合にて、当時スポーツディレクターを勤めていたカルロス・レシャックは、メッシのプレーを見てすぐにでも契約すべきと判断。その後「彼は天才だ。紙ナプキンでも、なんでもいいからサインさせろ。」とクラブ首脳陣に対して説得を行った。獲得を逃したくないと考えていたレシャックは紙ナプキンを取り、自身の権限の下でメッシの代理人の代わりに「バルセロナ 2000年12月14日。メッシ選手と私がやるべきことが守れたら、バルセロナFCはメッシ選手との契約を結びます。」と書き込んだ。これにより、メッシはバルセロナへと入団することが決まったのである。少年時代からすでに才能に秀でていたことがわかる有名なエピソードである。
本記事では上記で4つのスーパープレーを紹介したが、これ以外にも紹介しきれないほど素晴らしいプレーが存在する。そもそも、ひとたびメッシがボールを持てば、全てがスーパープレーなのかもしれない。ボールを持つたびに何をしてくれるのかとワクワクする。相手チームからしたら恐怖以外の何者でもないのだが。今後何十年、いや何百年と語り継がれていく選手、それがリオネル・メッシである。