関塚隆のプロフィール
鹿島アントラーズ コーチ
清水エスパルス コーチ
川崎フロンターレ 監督…J2優勝
U-23日本代表 監督…ロンドン五輪ベスト4
ジュビロ磐田 監督
ジェフユナイテッド千葉・市原 監督
日本サッカー協会 技術委員長
リバプールのエジプト代表FWモハメド・サラーは現在、世界最高の右ウイングの1人に数えられる存在となった。そんなサラーも、2012年に参加したロンドン五輪では、まだ母国クラブでプレーしていた無名の存在だった。しかし、その才能は当時から圧倒的なものだったようだ。川崎フロンターレを筆頭に数多くのJリーグクラブを指揮し、ロンドン五輪では44年ぶりとなるベスト4進出を達成した関塚隆氏は、五輪の準々決勝U-23エジプト戦で直接対面した若きサラーに「強烈なインパクトを与えられた」と振り返っている。
ロンドン五輪に臨んだ当時のU-23日本代表は、本大会直前に開催されたトゥーロン国際大会でもU-23エジプト代表と対戦していた。しかし、サラーはその大会には参加していなかった。
エジプトとは五輪直前のトゥーロンで対戦していたが、互いにメンバーが全く変わっていたので、あまり前回対戦が参考になることは正直なかった。W杯三次予選も同時期にあったし、ザッケローニさんと話し合いながら、トゥーロンのメンバーを決めていた。なので、日本もエジプトもベストメンバーではなかったし、トゥーロンに帯同していなかったサラーの存在も、そこまで認識しているわけではなかった。
ロンドン五輪準々決勝での再戦は、U-23日本代表が先制点を奪って迎えた前半41分、相手DFが危険なタックルで一発退場を命じられ、U-23エジプト代表はビハインドを背負う中で、数的不利に陥る窮地を迎えていた。関塚隆氏もリードを拡げるべく、一気に攻め込む考えを、少なからず後半途中までは持っていた。
五輪での対戦では、エジプト側で早々に退場者が出て、数的不利になったわけで、日本からしたらその時すでに先制点を奪っていたという状況もあって、畳み掛けようという気概だった。しかし、想定外だったのは、エジプトの右サイドだった。
追加点が奪えない中、関塚隆氏は右SBの酒井高徳を左サイドハーフとして投入する決断を下した。言わば、これは自チームの攻撃に厚みをもたらすためではなく、相手の攻撃を抑えるための守備目的である。関塚隆氏の采配にはどのような意図があったのか?その背景にあったのが、サラーだった。
酒井高徳は皆さんがご存知の通り、主戦場はサイドバックだが、エジプト戦では左サイドハーフとして途中投入した。エジプトが1人少ないため、リードを拡げるべく攻め込もうとしていたにも関わらず。なぜだと思います?それはね、相手の右サイドに、強烈すぎる選手がいたからなんですよ。本当に、強烈なインパクトを与えられた。当時はまだ無名な存在で、一体何者なんだと確認したら、モハメド・サラーという名前だった。
当時は母国エジプトのクラブでプレーしていたサラーは、世界的にもまだ名の知られていない存在だった。しかし、1人少ない状況下、右サイドで圧倒的な個の力を日本相手に見せつけていた。関塚隆氏は、サラーを目の当たりにし、いずれサッカー界を代表する存在となると直感したという。
エジプトの右サイドを抑えないとやばいな、とコーチ陣とも話していて、数的不利な相手にリードを奪っている状況なわけだから、本当はもっと攻撃的な選手を配置したかったんだけれど、そんな余裕は持たせてもらえないくらい、サラーの迫力が凄まじかった。この選手はいずれ世界トップレベルになるなと、その時に肌で感じた。サラー自身も、五輪の大会で手応えを感じて、自信に繋がったと思う。
あれから10年が経った。サラーは現在、リバプールで世界最高の右ウイングの1人として確固たる地位を築いている。関塚隆氏は現在サラーが本領を発揮できている背景に、サラーから逆算したリバプールの徹底的なチーム構成があると言及している。
サラーは今、ワールドクラスの選手になったが、彼の活躍はチームのフレームワークが基盤となっていることは間違いない。サラーはワイドに張って、ボールを持った時に仕掛けるわけだけど、当然、全てのデュエルに勝つなんてことはなく、ロストをする場面も出てくる。その時に、他の選手がすぐにボールを奪い返せるポジショニングやプレッシングが規律として浸透している。サラーが1人であれだけの選手になったわけではない。でも、彼に懸けるだけの才能は見出されたということ。今後、日本人からも、チームのフレームワークから逆算されるような選手が出てきてくれたら夢が膨らむね。
ロンドン五輪の準々決勝でサラーと対面した関塚隆氏は、U-23エジプト代表が1人退場した状況下で、数的不利を感じさせない孤軍奮闘のパフォーマンスに驚かされ、「この選手はいずれ世界トップクラスになる」と肌で感じたと振り返っている。そして五輪を終えた直後にサラーは母国クラブからスイスの強豪バーゼルへと移籍して以降、スターダムの階段を駆け上がるように飛躍的なキャリアを歩むことになった。U-23日本代表とも対戦した10年前のロンドン五輪は、“ダイヤモンドの原石”だったサラーが“ダイヤモンド”へと変貌を遂げるきっかけとなった舞台なのかもしれない。
鹿島アントラーズ コーチ
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