関塚隆のプロフィール
鹿島アントラーズ コーチ
清水エスパルス コーチ
川崎フロンターレ 監督…J2優勝
U-23日本代表 監督…ロンドン五輪ベスト4
ジュビロ磐田 監督
ジェフユナイテッド千葉・市原 監督
日本サッカー協会 技術委員長
カルロ・アンチェロッティ監督と言えば、チームのフレームワークから逆算し、選手をコンバートすることで、新たな可能性を引き出す起用法を真骨頂としている。また、関塚隆氏も川崎フロンターレを指揮していた際、当初は2列目でプレーしていた元日本代表MF中村憲剛氏をボランチにコンバートする起用法で、チームの礎を築いた。
そのヒントは、当時の関塚隆氏が現地イタリアへと飛び、ACミランのクラブハウスを訪れた際、直接やりとりを交わしたアンチェロッティ監督の存在にあった。
かつて関塚隆氏は鹿島アントラーズのコーチに就任し、ジーコ氏やトニーニョ・セレーゾ氏といったブラジル人名将の下、指導者としての土台を築いた。そこでは、勝負強さを重んじるブラジルサッカーの中に、緻密な戦術を取り入れるイタリアサッカーを感じることが多々あったという。
鹿島でコーチを務めていた当時は、ジーコがいて、トニーニョ・セレーゾの側で働く経験ができて、チームビルディングや、90分間のゲームプランにおけるブラジルのスタイルを学ぶことができた。その一方で、ジーコもトニーニョ・セレーゾも、選手時代にイタリアでプレーし、長年にわたってイタリアサッカーを習得した。そういう意味では、彼らの戦術は、ブラジルだけでなく、イタリアのスタイルもルーツになっていると、私自身も感じるところがあった。
鹿島のコーチを経て、関塚隆氏は2004年に当時J2だった川崎フロンターレに就任。1年目にしてリーグ優勝を達成し、J1昇格を掴み取った。J1に定着させるチーム作りを進めるうえで、各国クラブの視察を探っていた中、関塚隆氏もイタリアサッカーの研究や分析の必要性に行き着いたようだ。
私が川崎フロンターレの監督に就任して以降、自分もイタリアのサッカーを直接確認する必要があると感じていた。とあるツテから、当時ザッケローニさんのコーディネーターを務めていた人物と繋いでもらえたので、ユベントスとACミランの練習を見学させてもらえる機会を得て、Jリーグのオフシーズンに、1月の正月から2週間ほど、視察のために現地へと飛んでいた。
関塚隆氏はリーグ戦終了後、束の間のオフ期間を利用して、イタリアへと渡欧していたという。ACミランのクラブハウスを訪れた際は、当時指揮官を務めていたアンチェロッティ監督(現レアル・マドリード)と顔を合わせ、チーム作りのノウハウなどについて話し合いをする機会もあったと振り返っている。
ミランでは、アンチェロッティが直接会話する時間を作ってくれた。トレーニングで取り入れているメニューだったり、戦術面の狙いや、どういったフレームワークでチーム構成を逆算しているのかなど話してくれた。アンチェロッティは、現在のレアル・マドリードもそうだし、他のクラブでも優勝を成し遂げているが、起用法に関しても、戦術に関しても、非常に柔軟な指揮官という印象がある。選手たちのストロングポイントを組み合わせるチーム作りに長けていた。
アンチェロッティ監督は、現在指揮するレアル・マドリードで、本来ボランチを主戦場とするウルグアイ代表MFフェデリコ・バルベルデを右ウイングへコンバートするなど、チーム構成から逆算した選手の起用法を得意としている。関塚隆氏もまた、川崎でJ1を戦い抜くうえで、当時2列目でプレーしていた元日本代表MF中村憲剛氏のボランチ起用に踏み切っていた。
私自身は鹿島で培ったブラジルサッカーが主体だったのだけれど、ミランのサッカーは世界の最先端を担っていた中、現地でヒントを得ることができた。また、当時のフロンターレとしては、当時プレーメーカーを誰に据えるのかが大事だった。そんな中で、憲剛はサッカーIQの高さに加え、インサイドのグラウンダーパスの質の高さ、対戦相手にとってはパスをどこに出すのか読みにくい足の振り方など、彼の良さを踏まえて3列目にコンバートした。そこから見事、日本屈指のボランチに成長してくれたなと。
ボランチで飛躍的なパフォーマンスを発揮した中村憲剛氏は、引退する頃には歴代最高の日本人選手の1人に数えられる存在とまでなった。中村憲剛氏のボランチ抜擢に関しては、アンチェロッティ監督がミラン時代に、元イタリア代表MFアンドレア・ピルロをアンカーに配置した起用法に通ずるところがあるのかもしれない。
それこそ、ピルロも最初はボランチではなかったからね。当時であれば、ガットゥーゾやアンブロジーニのような攻守で動き回れるハードワーカーを置くのがスタンダードだった。そんな中で、アンチェロッティはピルロのようなプレーメーカーをアンカーに据えるという、当時ではあまり目にしない戦術に踏み切った。ピルロの隣にガットゥーゾを置くことで守備面も補填し、ピルロの攻撃の良さを引き出すための逆算でフレームワークを形成していた。
当時のJリーグは、縦横無尽に走り回るダイナモや、相手の攻撃の芽を摘むフィルターのタイプがボランチを務め、攻撃に違いを生み出すクリエイティブなプレーヤーは2列目に起用される傾向にあった。そのような中で関塚隆氏は、プレーメーカーの中村憲剛を3列目で起用したうえで、守備面のバランスを補填するべく、CBが本職の元日本代表DF谷口博之氏をパートナーとしてボランチにコンバートした。
日本でも当時は、ハードワークできる選手を3列目に置いて、プレーメーカーを2列目に配置するのが定石だった。だが、徐々にコンパクトなサッカーが主流になっていく中で、時間とスペースの確保が難しくなり、プレッシャーの少ない3列目でプレーメーカーが前を向いて展開していくことが重要になってくると考えていた。当時の川崎はJ1に昇格した1年目で、降格を回避するための攻守のバランスも大事だったので、左のCBが本職だった谷口博之を、憲剛の隣に置くボランチとして起用し、フレームワークを整えることができた。
2004年から川崎フロンターレに就任し、J2優勝とJ1昇格を達成して以降も、上位争いに加わることのできるチームへと成長させた関塚隆氏。プレーメーカーの中村憲剛をボランチにコンバートする起用法は、当時の日本サッカーではあまり慣れ親しんだ采配ではなかったが、それが川崎のサッカーを飛躍させる礎となった。その背景には、関塚隆氏が当時、オフ期間で現地イタリアまで足を運び、直接会話した名将アンチェロッティ監督の存在がヒントの1つになっていたようだ。
鹿島アントラーズ コーチ
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